宮下靖子プロフィール

創設者 故:宮下靖子メッセージ

創設者 宮下靖子

大正11年に東京で生まれ、昭和22年にはすでに洋舞歴17年だった私は戦争の終わった開放感の中、「これからは、一個の芸術家として自分自身の踊りを創造してゆきたい」という気持ちと無限の可能性を信じておりました。人生のパートナーに選んだ宮下貢介の「これからは外国人のまねじゃなく日本人が踊って美しい日本固有の洋舞を作り出そう。そのためには京都に住んで日本人の感性を培わなければ…」という言葉だけを頼りに京都に移ってまいりました。

お花の里、北白川の畑の真ん中に新設の校舎を建て、「宮下靖子バレエ学園」をスタ-トさせて以来、私はいつも二つのバレエ「クラシックバレエ」と「創作バレエ」の世界に足をかけて歩んで参りました。

設立当初の北白川校

お花の里、北白川の畑の真ん中に新設の校舎を建て、「宮下靖子バレエ学園」をスタ-トさせて以来、私はいつも二つのバレエ「クラシックバレエ」と「創作バレエ」の世界に足をかけて歩んで参りました。

クラシックバレエの世界は「くるみ割り人形」「眠れる森の美女」「コッペリア」などを京都市交響楽団の演奏で上演。

とくに「くるみ割り人形」は、振付・演出をハンス・マイスター氏に、衣裳と装置をダニエル・ジャソニュ氏に依頼し、ベルリンよりカール・ビュンテ氏の指揮のもと、京都市交響楽団の演奏で上演した時の感激を忘れることができません。また、今世紀中に実現させたいと夢見ていたチャイコフスキー3大バレエの最後のひとつ「白鳥の湖」を1999年のクリスマス公演で上演できますことも喜びのひとつです。

また、創作日本バレエにおいては、いけばなとの競演「嵯峨讃歌」、八坂神社を舞台にした「八坂物語」、聖徳太子が主人公の「明日香の真うず」。
どの作品も、貢介のプロデュースのもと私が踊りました。二人三脚で理想のバレエを追い求め続けたのです。そのパートナーは、平成6年亡くなりました。

今の夢は、貢介と長年構想を練ってきたバレエを完成させること。幸い後任として学園を引き継いでくれている娘と、作曲を手掛ける息子が最高の協力者となってくれております。バレエ学園創立50周年の年には、作曲・演出・振付全てオリジナルの京都に求めた理想のバレエを完成させたいと思っております。

宮下靖子 2005年3月23日 永眠
※本文章は宮下靖子が生前に残したメッセージです

宮下靖子プロフィール

谷桃子さんと

東京、自由ケ丘に生まれる。
8歳で石井小浪舞踊研究所入門。
石井小浪にモダンダンスを
オリガ・サファイアにクラシックバレエを学ぶ。

「バレエ?生きる喜びかしら。
稽古場に入った時が一番幸せ。」
京都新聞社発行「京都を生きる女たち」に
紹介されている総学園長の言葉より 

1947年 宮下貢介と結婚。
同時に「日本のバレエは京都から」の志しで京都に移住。
1955年 北白川に京都府公認各種学校
「宮下靖子バレエ学園」開校
1957年 「5つの現代芸術の集い」公演
1970年 宮下靖子バレエ団発足
1971年 第1回バレエ団公演 宮下靖子作品「嵯峨讃歌」上演
1973年 宮下靖子作品「八坂物語」上演
1980年 「眠れる森の美女」全幕上演
1984年 京都府知事賞受賞
1985年 ヨーロッパの専門家との交流による 「くるみ割り人形」上演
1988年 大人のためのバレエ教室開始
1990年 京都市芸術祭文化協会賞 受賞
1993年 日本バレエ協会舞踊文化功労賞 受賞
1994年 学園本体を京都駅八条口に移す
最愛のパートナー 宮下貢介氏死去
2000年 宮下靖子バレエ学園創立45周年/バレエ団設立30周年を迎える
2002年 傘寿記念 大阪・滋賀地区発表会にて「春の歌」を踊る
本校成人クラスの指導を意欲的に続け「バレリーナへの道」42
大人からのバレエ4にとりあげられる
2005年 3月23日 永眠
  • 宮下靖子写真1
  • 宮下靖子写真2
    『2002年 傘寿記念 春の歌を舞う』